2024.5/27
数寄者の面影 秋山順一の面象嵌盃
李朝陶器蒐集の黎明期に浅川伯教や赤星五郎などと交流し、朝鮮陶磁の優品を数々蒐集したことで知られる秋山順一(1892−1975)。
最近、根津美術館で開催された「魅惑の朝鮮陶磁展」にて秋山氏のコレクションをご覧になった方も多いのではないでしょうか。
今では入手が難しい佳作が並ぶなか、鑑賞陶器的な“名品”とはやや異なる角度で印象深かったのは、幅広い中にも一本筋の通った選択眼を見て取れる酒器の数々。
あり得ない話ですが、ガラス越しの些か冷たい展示空間で「触ったらまだ温かいかな?」と一瞬頭をよぎるような血の通った佇まいが目を引きました。
元は良寛などの書画に傾倒していたところ、鶏龍山の徳利がきっかけとなって陶磁器へと開眼した秋山さん。コレクションの中でも、李朝初期の三島系の作品に優れた品が多いことは当時の蒐集仲間にも言われていますが、氏にとって三島のやきものは特に感性に適うものだったのかもしれません。
「数十年前のある日、赤星五郎さんが壺中居の広田煕さんを同道来宅された際、酒をすすめましたら『同じく酒を飲むなら古く美しい徳利と盃で飲んだ方が一段と美味しいのに』と広田さんが強調され、陶器蒐集家の赤星さんも亦同調されました」
赤星、廣田両氏と訪れた料亭で、この時に求めた鶏龍山徳利の進水式をしたという話は今でも李朝数寄者の間で語り継がれる伝説的なエピソード。
以来蒐集された、朝鮮ものや唐津、黄瀬戸、中国官窯の青磁などの幅広い酒器は、数冊の著作にまとめられ、貴重な資料となっています。
『疎松庵素玩』もそのなかの一冊。
根津美術館に所蔵されている秋草文壺に始まり、鑑賞陶器から墨蹟まで幅広く収められた目録です。
先日『疎松庵素玩』 掲載品のひとつ、李朝面象嵌牡丹葉文盃を扱う機会に恵まれました。
面象嵌は、三島と呼ばれる李朝初期の作品群中でもとりわけ数の少ない装飾技法。
文様全体を掘り込んで白土を入れるような広い面積の象嵌が特徴で、素地と象嵌部分とが反転するような独特の視覚効果をもたらします。
程よく深さのある盃の見込みに大きく牡丹の葉が彫り込まれた盃。
李朝全般に言えることですが、元々祭器として作られている李朝陶器は酒盃にちょうど良い大きさのものが極端に少なく、片手で持つにはやや持て余す大きさのものがほとんど。
ただでさえ希少な面象嵌で、尚且つ酒盃にちょうど良い大きさとなれば、見つけることは極めて困難です。
この盃が秋山さんの旧蔵品とわかったのは入手した後でしたが、氏の眼に適ったというのも深く頷けました。
ですが、そうした希少性以上に魅力的だったのは言葉に表し難い味わい深さ。
それは単なる出来栄えの良さとは異なる、唯一無二の雅味とでも言えるものでした。
秋山さんは、毎晩使う徳利と酒を自分で用意し、まるで子供を撫でるように情愛を込めて酒器を用いていたそうです。そして不思議と酒器もそれに答えるかの様に表情を変化させたと蒐集仲間は語っています。
おそらく、この酒盃も長く秋山氏が愛用したことでその姿を徐々に変え、艶を増したことでしょう。
手や口に触れ、酒を飲む酒器は、鑑賞陶器よりも人の近くにある存在。日常的に用いる道具として違和感なく受け入れられたものほど、その証をはっきりと残しています。
酒器の面白みは、ものに所有者の愛着が目に見える形で残り、その痕跡によって故人であっても面影に触れ、言葉を介さずとも交歓できる点にあることを改めて感じた酒盃でした。
こちらの盃はほどなくして新たな蒐集家の元へとお納めすることになりました。
稀代の蒐集家の愛着を手に取るように感じた品を手放すのは名残惜しくもありましたが、再び共感してくださる現代の蒐集家へと繋ぐことができ、嬉しく感じた出来事でした。