Blog

2011.5/23

東大寺二月堂焼経

織田信長の父、信秀が北野天満宮から菅原道真の
木像を勧請し、奉ったことに由来する万松寺。

万松寺は時代の中で場所を移り、名を変えて、
現在、名古屋三天神のひとつ「桜天神」として
合格祈願のお参りで人々に親しまれているそうです。

今日はその名古屋の桜天神(桜天満宮)に伝わった
二月堂焼経をご紹介します。

寛文7年(1667年)修二会(お水取り)の際に、火災に遭い、

焼け跡から見つかった経巻は、巻物の上下が焼け、

焼けた跡が美しい抽象的な姿となり、それ以来、

好事家のあいだで二月堂焼経として珍重されてきました。



・二月堂焼経軸 

 奈良時代 

 画面縦20.2×横42.6㎝

 (御売約済)

 

 
・須恵器長頸壺花入 

 奈良時代 

 高18.4㎝

 (御売約済)

 

 

藍染された紺紙に銀泥で書き写された奈良期の写経は、
この二月堂焼け経が唯一である。

 

本来銀泥で書写されたものだが火災の際に水を被り、

経年の為に、黒ずんでしまっているが、隋・唐様式の

格調高い書体でのびやかさと雄大さが見てとれます。

古くからこの格調高い書体ゆえに東大寺二月堂焼経は

菅原道真筆と信じられてきました。東京国立博物館所蔵の

手鑑「月台」においても二月堂焼経切は伝菅原道真筆とされています。




箱の中の次第には
「東大寺の焼経を分割し、くじ引き抽選で分けるので
桜天満宮に会費を持参のうえ、集まるように・・・」との内容が
記されています。このハガキの表の消印は大正15年。

社務困窮の折、永く伝わって来た二月堂経巻を
分割せざるを得なかったのでしょうか・・・

写真右の封筒には料紙で作った「十九番」の札に桜天神の印。
経巻は状態が良く、相当な長さがあったようです。



「紺紙銀字華厳経零葉 号二月堂焼経 存二十一行」

稀少な書物が紙片となって残っているものを呼ぶ
「零葉」という書誌学用語を使った箱書がなされ、
日本・中国の禅僧、墨跡研究の第一人者、
田山方南の識箱に納められています。

田山方南は文化財の保存に尽くし、
国宝・重文指定に長年携わったことでも知られます。

一覧へ戻る